Slow Luv op.1 -1-



 その感情に気づいた時は、すでに遅かった。高校の時に知り合って九年。大学も、所属サークルも同じであったにも関わらず、よりによって、その結婚披露宴で気づくというのもまぬけな話だが、それよりも何よりも、彼に対してそう言った感情を持っていたということに驚いてしまって、スピーチの途中で詰まっている自分の姿も、結構まぬけだった。
 詰まったと言っても一瞬のことで、次には滑るように言葉が流れていた。
 自分の意思とは、関係なく…。




〔月曜日〕
 

 ピアノと言う楽器は、全身が木で出来ている。
 植物は、木でも野菜でも切られて尚、芽吹こうとする。それだけ生命力が強く、生きる念に溢れていると言えた。  
 だからピアノは、生き物なのだ。とても神経質で、とても繊細。そしてとても正直だ。気温・湿度の変化にすら反応し、音色もたちまち悪くなる。
 それゆえにピアノの所有者は、常にそのコンディションを気遣ってやらなければならない。
「だからね、奥さん。年に一回はメンテナンスしないと。このピアノ、前に調律してから十五年経ってますよ、十五年!」
 ピアノを持ってる資格なんかあるか…と言ってやりたいのを、悦嗣はぐっと我慢した。
 加納悦嗣は調律師をしている。七年前までは普通の会社に勤めていたが、脱サラしてこれを始めた。もともと芸術大学の器楽科(ピアノ専攻)を卒業していて――と言っても、三流大学だが――、こちらの方がそれを生かした職業だろう。
 ピアノ教師はガラじゃない。プロのピアニストには才能が追いつかない。しかし幼少時からの音楽教育の賜物か、絶対音感の持ち主だった。それが調律に役立つかと言われれば疑問ではあるが、要は音楽の世界に身を置きたかったのである。
 人に使われる為の忍耐は、三年で使い果たされてしまっていたので。
「これが限界。ここまで放って置かれたピアノはへそを曲げるから、またすぐ狂ってきますよ。しばらくは三ヶ月に一度調律することをお勧めします」
 顔の広さも手伝って、仕事の依頼は順調だった。しかし歯に衣着せぬ物言いが好き嫌いを呼んで、二度とお呼びのかからない客もいる。逆に、その自信が裏打ちする調律の腕を買って、彼を専属に使いたがるピアニストもいて、リサイタルに同行することもあった。
 今日の客は多分、前者。十年も調律していないピアノだと聞いていたが、実際はそれ以上の代物で、その上ほとんど弾いていないのか、音の狂いは相当なものだった。ピアノに特別思い入れがある方ではないが、職人としての悦嗣には許せない範疇で、物言いも冷たくなろうってものだ。
「まったく、ピアノは置物だとでも思ってんのか」
 車に仕事道具を放り込みながら、悦嗣は独りごちた。
 時計を見ると、次の仕事の時間まで余裕がない。放置ピアノ≠ノ思いの外、手がかかってしまっていたらしい。
「連絡、連絡っと」
 取り出した携帯電話に、メールの着信マークがついている。開いてみると、曽和英介からだった。
トラブル発生。今夜遅れるかも
ok≠ニ短く返信した後、浅く溜息をついた。
 四年前にウィーンのWフィルのオーデションに受かって渡欧した英介が、久しぶりに帰国していた。仕事がらみであったが、オフも兼ねて一ヶ月近く滞在するとの事で、飲みに行く約束をしていたのだ。
 人生最大の衝撃とも言える、感情に気づいた彼の結婚式から、七年が経っていた。
高校以来の親友に対する気持ちが、実は友情以上のものだったことは、悦嗣の中にギクシャク感を残した。転職による忙しさを理由に、会う機会も減らした.
 だから四年前、英介がウィーンに行くことが決まった時は、友人として寂しい反面、ホッとしたものだ。
「ま、四年も経ってるしな」
 渡欧してからは英介も多忙でほとんど帰国せず、メールのやりとり程度のつきあいで済んでいた。
 少しは自分の気持ちに整理がついているかも…と言うより、あの感情は錯覚だったかも知れない…と思えるようになっていた。
 悦嗣は次の仕事先に連絡を入れ、アクセルを踏んだ。




 ローズテールはピアノやジャズバンドの生演奏が売りの店で、悦嗣も週に一、二度の割合でピアノ弾きのアルバイトをしている。英介とはそこで飲む約束をしていた。
 彼は小一時間ほど遅れてやってきた。二人はカウンターに並んで座り、それぞれ好みのドリンクをオーダーした。
 今夜はジャズの日で、スローテンポの曲が店内を満たしている。テーブル席はカップルが占めていた。
「どうしてた?」「忙しそうだな?」の言葉から、二人は会話を広げていく。
 曽和英介は『月島の奇跡』と呼ばれていた。
 二人が卒業した私立月島芸術大学は、歴史が浅い上に、多少腕に自信がある人間なら、大抵入ってしまう三流大学である。従って卒業後の進路も、芸術系とは無縁な所に決まる学生がほとんどであった。
 その日本国内でも無名の芸大・月島から、Wフィルのチェリストになったのが、曽和英介なのだ――並居る世界のライバルを押しのけて。
「おまえは技術的には申し分なかったからな。月島にいたこと自体、七不思議だ」
「だって俺、英語最低だったし、聴音が鬼門だったから」
「聴音は記符がトロかっただけだろ? 英語だって受験英語がダメだっただけで、今じゃペラペラじゃねえか。ドイツ語だって喋ってるし、実践向きってことさ」
「そっかぁ、じゃあ俺、天才型ってこと?」
「ぬかせ」
 久しぶりの再会、久しぶりの会話に酒量も増える。
 英介は以前と変わらず、屈託のない笑みを絶やさない。
 そして悦嗣は…その笑顔を見て思い知る。七年前に気づいた想いは、やはり錯覚などではなかったことを。
「小夜子、元気か? あいつは日本に居るんだよな?」
 それを振り切るように、話題を曽和小夜子に移した。英介の妻であり、悦嗣にとっては大学時代の友人でもある。
「あいつの仕事も忙しそうだよな。出版社だっけ?」
 学生時代はサークルが同じだったこともあり、三人でいつもつるんでいた。
「編集長になったらしい。彼女とは、今、離婚調停中」
 快活で、華やかで、気取りのない彼女に、英介は一目ぼれだった。友人の一人としてしか見なかった悦嗣と違い、英介は常に小夜子を女性として扱っていた。
「ええ!?」
 卒業後は就職先も別々で、悦嗣は小夜子と間遠くなったが、英介はこまめに連絡を取っていたらしい。そして二人は結婚した。
「この四年、別居みたいなものだったから。そろそろ結論出した方がいいかなって」
 その英介の口からは、二人の離婚が語られる。
「だって、おまえ、小夜子にベタ惚れだったじゃねぇか」
 ちょうど音楽が途切れて、興奮して大きくなった悦嗣の声に、周りの客が一瞬、振り返った。
 英介が苦笑う。
「うん、俺はベタ惚れだったけど、小夜子は元々エツが好きだったんだよ。周りは彼女にプロポーズするのは、おまえが先か、俺が先かって言ってたくらいだから」
「俺は小夜子に恋愛感情なんて、持ってなかったぞ」
「エツは友達に男女の区別ないからな」
「あいつにそれ、確認したのか?」
 英介は首を振った。
「それだけじゃないんだ。小夜子の仕事が順調で、日本を離れられなくなったって言うのもある。時間が合わなくて、ここ二〜三年はほとんど会ってないし。そうなったら別に夫婦でいる意味はないしね」
 淡々と話す英介だったが、悦嗣は「らしくなさ」を感じていた。
 二人がこの話を、ちゃんと話し合っているかどうか。
「トラブル発生って、小夜子のことだったのか」
 もしかしたら、昨日今日、そういうことになったのかも知れない。
 悦嗣のつぶやきに、英介は「違う違う」と笑って手を振った。
「前から出ていたんだ、この話は。具体的になったのは最近だけど。もう少し気持ちに整理がついて形になったら、おまえに話そうと思ってたんだ。それに今回は仕事で帰ってきてるし。離婚の話より、そのトラブルの件で、エツに頼みがあるんだけどな」
 英介は話題を変えた。話したくない時、彼は多少不自然であっても、話を刷りかえることがある。
 今はまだ話したくない…と、笑んだ目が語る。仕方なく悦嗣も、逸らされた話に耳を移した。
「今回アンサンブルのコンサートで回っているんだけど、ピアニストが腹膜炎で倒れちゃって、代役探してるんだ」
「俺の知り合いに、腕の良いピアニストなんていないぜ」
 悦嗣の頭の中には、まだ離婚の二文字が残っている。だから次の話題に素っ気ない。
 英介は構わず続けた。
「エツに頼みたいんだけど」
 グラスに近づけた口を、悦嗣は離した。
「何言ってやがる。何年弾いてないと思ってるんだ」
 さっきの話題が吹き飛んで、意識が彼に戻ると、あきれたように言った。
「そうかな、時々バイトで弾いてるって聞いたけど?」
「あのなぁ、アンサンブル・ピアノと、結婚式やカフェのバイトと同じにするなよ」
「曲目はブラームスのピアノ五重奏。学生の時に弾いたことあるだろ?」
「おい」
 英介はカバンの中から、楽譜を取り出していた。用意周到である。
 目の前に差し出されたそれを、悦嗣は軽く払った。
「だから、卒業してから何百年経ってると思ってんだ」
「俺はエツの腕を惜しいと思ってるよ。機会があれば、もう一度一緒に弾きたいと思ってた」
 英介の顔から笑みは消えていた。思いつきの冗談ではなさそうだ。
 悦嗣はグラスの酒をあおった。
「エースケ、そのチケット、いくらなんだ?」
「五千円」
「五千円払って来る客に、カフェバーのバイトのピアノを聴かせんのか? 客を馬鹿にすんのはよせよ」
 昔からそうだが、英介は悦嗣をピアニストとして過大評価する嫌いがある。三流とは言え、芸大でピアノを専攻した身にとって、海外で活躍する人間から評価されるのは、悪い気はしない。
 しかし英介が知っている悦嗣の腕前は、学生時代=全盛期の頃のもので、遠い過去のものなのだ。
 卒業してから悦嗣が彼の前で弾いたのは、結婚披露宴での即席デュオの一曲。その評価が適正とは言い難い。
 悦嗣の言葉に一瞬詰まった英介だが、尚も話を続けようと口を開きかけた。
「久しぶりに会ったんだから、そんな実にならない話はやめて、飲もうぜ」
「エツ」
「いい加減にしろよ、エースケ。離婚話、蒸し返すぞ」
 それを冗談めかして、しかし脅し半分で抑えつけ、無理やり話を終わらせた。
 仕方なく英介は、それ以上その話を続けなかった。
 そうしてやっと、『久しぶりの再会に酔いしれる夜』に戻ったのである。

 



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